【前回の記事を読む】「うんていから落ちた」けがをした息子に対する母の言動に唖然

一粒の種子(たね)

母さんは、俺に勉強しろとは言わなかった。その代わり、学校は休まずに行けと言われた。給食が出るからだ。家で朝食を食べる習慣がなかった俺には、栄養を十分に摂取することのできる唯一の食事だった。学校は大きな団地の子、無数にある小さなアパートに住んでいる子がほとんどだった。両親が揃っていても、共稼ぎの家庭が多かった。学校までは林と畑ばかりで、戸建ての家は数えるほどしかなかった。

「あまりいい家の子はいないわ」

なんかのときに母さんがそう言ったが、子どもだった俺は、その言葉の意味も深く考えていなかった。小学校の修学旅行にも行かずに、卒業を迎えた。修学旅行には、積立金のほかに体験学習費の名目で、お金を追加で払うことになっていた。だからというわけではないのだろうが、旅行に参加しない子がクラスに四、五人はいた。

社宅や大きな団地に住んでいる子、それと少なかったが戸建てに住んでいる子は、文句なく旅行に参加していた。小さなアパートに住んでいる子や、間借りをしている家の子のなかには、ふだんから給食費を待ってもらっている子がいて、家によって稼ぎに差があることを俺は知っていた。

母さんは気が強かったから、給食費や教材費が遅れたことは一度もない。でも、体験学習費を請求するプリントを見せたら、母さんは少し嫌そうな顔をして、「曜、あんた旅行に行きたい?」と聞いた。俺は旅行先の日光に興味がなかったので、「別に」と答えた。

「旅行欠席にすれば、積み立てたお金が戻ってくるし、それで好きなもの一個買ってあげるから、欠席にしなさいよ」

母さんの言葉が終わらないうちに、もうほしい物を考えていた俺は、そんなに学校が楽しかったという思い出がない。成績は中の下、みんなの先に立ってはっちゃけるタイプではなかったから、学校ではきっと、いるんだかいないんだかわからない、存在感のない生徒と思われていただろう。

修学旅行欠席で、返してもらったお金は八万円。そのなかから半分と少しで、当時流行っていたゲーム機とゲームソフトを中古で買ってもらった。誕生日もクリスマスもプレゼントをもらった記憶のない俺には、うれしかったなんてもんじゃなかった。残りのお金を返したら、母さんも少しうれしそうな顔をした。

それからは、学校に行ってもますます鳴りを潜めて、ひたすら給食の時間を待ち、食べ終わると午後の授業はうわの空で、帰ってゲームをすることだけしか考えていない生活だった。秋の修学旅行が終わると、あっという間に年が明けて、びっくりするほどのスピードで卒業式がきた。卒業式といっても、うちは親は来ない。母さんは俺がなにをしていても、毎日変わらずに働いていた。