「暴力に対する恐怖は、いまだにわたしの中に残っています。この恐怖の感覚にとらわれると、何も考えられない、何もできない、ただじっと固まってしまいます。

殴られても、蹴られても、わたしがいつも逃げずにじっと母のなすがままだったのは、父や家族のためでもありますが、本当のところは恐ろしくて動けなかったからです。何をされても耐えていたのは、恐怖がわたしを支配していたからです。怖くて身が竦むなんて、なまやさしいものではありません。冷凍されてどこか別世界に転送されてしまったように、感情も身体感覚もすべてが強張って動きを止めてしまうんです」

泣いていないとき、この女性は、まるで朗読でもするようにはっきりと自分の身の上を語る。話が途切れると泣き始める。泣きやむと朗読を開始する。語る内容と口調は一致しない。泣くか語るか、オンかオフか、情緒にとらわれると何も言えない、何か言うときは情緒を遮断する。いや恐怖を遮断する。

「四つ下の妹がいますが、まだ妹が1歳か2歳のときに、母が妹に向かって怒鳴っているのを見て、幼いながらこれは何とかしなきゃという気がして、母にダメェっと大声で言って、反対に口の中が切れるほど強くたたかれたことがあります。

大きくなると妹は、たたかれれば大きな声で泣き、やがて隙を見ては逃げていました。わたしは恐怖で固まり、どんどん殴られ蹴られる。妹は泣き叫んで逃げ回るので何でも軽くて済む。自分も逃げればいいのに、そう思っても竦んで動けない。本当に動けない。泣いて逃げた妹に、今でも腹が立ちます」

「母は年を取ってきて逃げ回ると追いかけるのが面倒なんだ、とか、わたしがじっとしているから標的にしやすいんだ、とか考えてみても、逃げることはできないし、自分だけやられているのは不公平だという思いも消えません。どうしてこの子はわたしの隣で一緒にたたかれてくれないんだ、とずっと思っていました。妹は卑怯だとさえ思いました。

でも妹がやられると、自分がやられるのよりも恐怖が湧いてきて、早く止めてと心の中で叫んでいました。わたしはどこかおかしいんだと思います。逃げることもできない。妹に腹を立てる。かばってみる。自分でもどうしたいのかわかりません」

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『毒親の彼方に』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。