旅では、また恋も失恋も経験した。1777年9月、父の健康が優れなかったので、モーツァルトは母と共に就職活動のために「マンハイム・パリ旅行」に出かけた。

旅先のマンハイムで出会ったアロイジア・ウェーバーは、モーツァルトが生涯で最も恋いこがれた女性であったろう。容姿端麗で、声が美しく、歌の才能があるアロイジアと一緒にイタリアに行って、彼女を歌手として大成功させてあげたい旨の手紙(1778年2月4日、モーツァルト書簡全集第3巻、472〜476頁)をザルツブルクの父に送ったのであった。

それを読んだ父は激怒して、12日付けの手紙で大至急パリに立つように命令した(同512〜521頁)。モーツァルトは母と共に泣く泣くパリへ向かったのであった。そのパリでは、就職活動はままならず、演奏会や作曲の仕事も少なかった。幼少期にはモーツァルトのことを天才としてもてはやしたパリは、成人したモーツァルトには目もくれなかったのである。

失意のどん底にあるモーツァルトにさらに追い討ちをかけるような出来事が起きた。かねてから体調が思わしくなかった母が病床に伏してしまったのである。ついに最愛の母が天国に召された夜、22歳のモーツァルトは、父に手紙をしたためた(1778年7月3日、モーツァルト書簡全集第4巻、131〜135頁)。

父の衝撃を少しでも和らげようと、「母は病床にあり、危険な状態にある」ことだけを伝えて、亡くなったことは伏せておいたのである。もう一通の手紙はザルツブルクの親友、ブリンガー神父に宛てた(同137〜139頁)。「母の死を父が知って衝撃を受けないように、父にまず母の死を覚悟できるよう心構えをさせてほしい」と懇願しているのである。

この二通の手紙は何回読んでも感動する、素晴らしいものである。わずか22歳の青年をここまで思いやりのある人間に育てたのも「旅」であったのではなかろうか。

最悪の状態にも関わらず、あの息を呑むように美しい「フルートとハープのための協奏曲K.299」という最高傑作が生まれたのである。それだけではなく、「フルート四重奏曲K.285a」、「ピアノとヴァイオリンのためのソナタK.301-306」、「フルート協奏曲K.313,314」等の傑作が次々と生まれて行くのである。

一人になったモーツァルトは、パリから帰省する途中アロイジアに会いたい一心でミュンヘンに立ち寄った。しかし、そこに待っていたのは、モーツァルトの心を引き裂く衝撃的な事件なのであった。マンハイムで彼女に全面的な歌唱指導をし、何くれとなく援助をしたのにも関わらず、ミュンヘン歌劇場専属歌手となって大活躍していたアロイジアは、もうモーツァルトには目もくれず、軽く鼻であしらったのである。

就職活動に失敗し、最愛の女性にもふられたモーツァルトにとってミュンヘンからザルツブルクまでの美しい景色は、さぞかしどんよりとした、悲しい景色に見えたことであろう。しかしながら、この失恋の痛手がモーツァルトをさらに大きく成長させることになるのである。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『いつもモーツァルトがそばにいる。ある生物学者の愛聴記』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。