【前回の記事を読む】【音楽】モーツァルトは「旅の人」?知られざる遍歴を辿る!

旅の人、モーツァルト

モーツァルトが幼少期から訪れた町は、ミュンヘン、ウィーン、ロンドン、チューリッヒ、アムステルダム、パリ、トリノ、ミラノ、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネチア、ローディー、リンツ、ベルリン、ハイデルベルク、プラハ等数え切れないほどである。

その旅たるや、新幹線や飛行機のない時代に、船や馬車を使っての命がけの長旅であった。舗装のない悪路を劣悪な馬車で何時間も揺られ、体への負担はさぞかし大きかったのではなかろうか。空の上でおいしい機内食を食べながら、モーツァルトの音楽を聴いたり、映画を見たりしているうちにあっという間に目的地に運んでくれる、現代のような楽しい飛行機旅行ではなかったのである。まさに、心身をすり減らす旅であった。

しかしながら、もしモーツァルトが旅をしていなかったら、ザルツブルクから一歩も出ていなかったら、いくら大天才とは言え、彼の音楽がこれほどまでに素晴らしいものにはならなかったのではなかろうか。緻密な構成を持った端正なドイツ的音楽に、イタリア的な流麗な美しい旋律やフランス風の優雅さが加わったのである。

もしモーツァルトがイタリアに行かなかったら、「フィガロの結婚K.492」、「ドン・ジョヴァンニK.527」、「コジ・ファン・トゥッテK.588」等の歌劇の傑作も生まれなかったのではなかろうか。

また、旅はモーツァルトを成長させる、人生の師でもあった。旅の途中いろいろな貴重な体験をして人間としての成長を遂げたと思われる。その中でも特に人との出会いが大きかった。

フィレンツェで出会い、友情を育んだイギリス人のトーマス・リンリー、ザルツブルクで出会い、ウィーンで再会し、最晩年にドイツ歌芝居の最高傑作「魔笛K.620」の脚本を担当することになったシカネーダー、ウィーンで出会い、歌劇「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」の脚本を書いた、ダ・ポンテ、最晩年の室内楽や協奏曲の最高傑作である「クラリネット五重奏曲K.581」や「クラリネット協奏曲K.622」を生むきっかけとなった、クラリネット奏者のアントン・シュタットラーやウィーンでライバルであった、アントニオ・サリエリ、また生涯を通して尊敬し、敬愛した大先輩のヨーゼフ・ハイドン等、友人はモーツァルトにとって欠かすことのできない財産となった。