小林作品の“難解さ”について

考えるという行為は、衣食住(いしょくじゅう)に加えて、人間存在の四大必要ないし条件を形成するのであろう。のみならず、それこそは又、人間を動物から唯一区別する、特徴的な(いとな)みでさえあるのだろう。

とはいっても、それは、衣食住とは異なって、その過不足(かふそく)肉眼(にくがん)に見えたり、当事者に必ずしも自覚されるわけではない。又、その行為の場所についても、外部世界にとどまらず、内面世界の広がりにも及ぶのである。そのため、その充実や有無(うむ)について、はっきりした物差(ものさ)しがあるとはいえず、その判定は決して容易とはいえないのである。

とはいえ、その行為は、社会に及ぼす影響力の大きさや、精神の自由ないし人間的自覚に関係することといい、その判定の必要性や要請(ようせい)には、不可避(ふかひ)のものさえあるのである。それが、歴史社会の内面を突き上げる衝動(しょうどう)となって、人類の精神思想史の原動力を形成してきたといっても過言(かごん)ではない。

そして、その応答(おうとう)の形式が、例えば、ソクラテスや仏陀(ぶっだ)の例のように、哲学的問答体(もんどうたい)を取るにせよ、あるいは近代的批評の形式を取るにせよ、人類の歴史にその顕現(けんげん)を必然たらしめてきたのである。

ところで、それは、時代の所与としての「考える」という行為の一般性に対して、批判的な関係に立つもので、考えるという行為が反省的に徹底されたものなのである。反省の意識が、“考える”と言う行為の隅々(すみずみ)に至るまでを(つらぬ)き流れるなかで、いずれ方法の明確な意識へと高められ、洗練(せんれん)されて、その理想的な自覚のうちに、方法としての統一性や支配を自ずと実現しているのである。

その及ぼす効果は、日常的に見知っているはずの事物や世界を、反省の光の思いもよらぬ照明のうちに、いわば言語以前の裸の姿において浮き彫りにするのである。既知性(すでちせい)という、自明性の無意識の(から)(おお)われた、言葉や事物、存在の日常的なアイデンティティが、破壊され、根こそぎにされるのである。

しかし、そのことは、そのような最上の精神的、思想的経験をめぐっては、その理解や解釈の行為自体が、自らの経験に躓いて、往々に面食らうことなのである。

例えば、ソクラテスは、同時代のギリシア人にとっては、その日常的な思考を根底から震撼(しんかん)させるために、「()れれば(しび)れる電気ウナギ」との評言を以もって迎えられたのである。