【前回の記事を読む】由来は1200年前の伝承にあり。京都・一条通の「戻り橋」とは

おセミ様

「旅の人、どこから来られた」

ふいに甲高い声が響き、私はぎょっとしてふりむいた。が、誰もいない。ああ、ついにありもしない声まで聞こえるようになったか……と思ったとき、「ここじゃ、ここじゃ。おまえのすぐ前じゃ」と再び声がした。よく見ると、つり橋の細い手すりの上に十センチメートルぐらいの男が立って笑っていた。神話に出てくる神様のような着物を着て、立派なヒゲをたくわえていた。

「ああ、さぞや、ありがたい神様とお見受けいたしました。私は京都から参りました。このところ何をやってもうまくいかず、実は仕事を放り出して逃げてきたのですが、こんな所で神様に出会えるなんて! ありがたい、ありがたい……」

「まてまて、わしは神様などではない。拝まれても迷惑じゃ」

「またまたぁ。そのお姿で神様じゃなければ、いったい何だって言うのです」

「わしは、セミじゃ」

「えー、そんなばかな。わかった。そうやって愚かな人間を試そうとしているのですね。よくあるパターンだ」

「そうではない。わしらは土の中で七年も過ごすので、おそろしく退屈なのじゃ。だから時々こうやって地上に出て息抜きをしてよいことになっておるのじゃ」

私は声も出ず、目をぱちくりしていた。

「羽が生えたら地上に追い出されて死ぬまでミンミン泣くだけだがな」

男はちょっと寂しそうに言った。

「そもそも、このかっこうが神の姿だと誰が決めた? 誰も会ったこともないのにうわさと外見だけで判断しよる。裸になればみんな一緒なのに。いつまでたっても人とは愚かなものじゃ……。三年後、機会があったらまた会おう」

そういうと、男はスッと姿を消した。その瞬間、私の顔にサッと冷たいものがかかった。どうやら男の正体は本当にセミらしい。静岡は大井川の上流、寸又峡すまたきょうという山里でのことである。

それ行け火星生活

朝起きて、窓から外を見た。相変わらず赤い大地がどこまでも広がっている。空は夕焼けよりも少し明るいピンク色。これもいつも同じだ。僕がこの星に来て一年ほどたった。毎日特にしなければならないことは何もない。食料は十分にストックされ、家の外は東京ドーム三個分のシェルターに覆われているので、特別な装備なく散歩をすることができる。寂しくなれば《わが心の星、地球生活》というVRを装着すれば、かつての地球生活を継続的に味わうことができる。

しかし、はっきり言ってヒマだ。しかも同時に十人の地球人が出発したはずなのに、誰にも会わない。出発時に「長い旅になりますから」と言われて飲まされた長期睡眠薬《冬のクマさん》のせいで、目覚めたらこの部屋だったので、いまいち火星にいる実感がない。そろそろ寂しさが限界に達してきた。もうだめだ。誰でもいいから人に会いたい。人が無理なら犬でも猫でも、いやいっそゴキブリでもいい。自分以外の生命を感じたい……と思った時、突然ガバリと強引に頭の皮をはがされるような感触があって、メガネをかけて変なTシャツを着た太った男が目の前で笑っていた。

「どうです、当社が開発したVR《それ行け火星生活》は。まるで火星に一年間生活していたみたいでしょう? 本当は一時間しかたっていないんですけどね。新シリーズも近々発売になりますから、ホームページもご覧になってくださいね。ひっひっひ……」

何がなんだかわからなかったが、そういえば北野白梅町の嵐電前でこの男に声をかけられた気がする。そして古いビルに入って、エレベーターに乗って……。

「お疲れ様でした。さ、アンケートにご記入いただいたら、お帰りはこちらでございますよ」

開けられたドアから外へ出ると、ムッとする夏の空気と喧騒の中、いつもどおりの北野白梅町の夕暮れの風景が広がっていた。