正月からに茶会を楽しむ一方で、『公儀の意に従わぬ』というよりは、この儂による大和支配を認めぬ多武峰の衆徒を屈伏させるべく、正月のうちに儂は兵を動かした。

多武峰は奈良盆地の南端にあり、藤原摂関家の祖である藤原鎌足公の墓がある妙楽寺の聖域で、十三重塔などを配する大伽藍を誇っていた。そこを守る僧兵は古来より荒くれ者として鳴らして来たが、攻める儂らはを生業とする武家である。

「そんな者はすぐに退治できよう」

と、儂は高を括っていた。ところが予想を超える抵抗にあい、思わぬ苦戦を強いられた。

「殿、高所よりあれだけ矢を射込まれては、柳生殿も難儀しているご様子。このままでは手も足も出せますまい」

峰の麓の石舞台に本陣を構える儂の傍らで竹内秀勝がした。この日、大和の国衆の中では最も心強い与力となっている柳生宗厳隊が先鋒となり峰を目指していたが、矢の雨にられ、一向に前進できずにいた。それでも、矢の雨が弱まった間隙を突いて、柳生隊が前進を試みた時、柳生隊の右側の尾根から伏兵が湧いて出た。

柳生隊はこれを予想していたため、即座に隊列を組み直し的確に応戦していたが、再び降り始めた矢の雨が柳生隊を襲い、混乱し始めたのが本陣からも見えた。しばらくすると、伝令が急を告げた。

「柳生宗厳様、矢傷を負われたご様子」

「秀勝、そなた、松田と鳥居を連れて援護して参れ」

「畏まって候」

「柳生宗厳殿を討たすなぁ!」

と、気合を入れて秀勝は陣を飛び出していった。

柳生隊の混乱は収拾がつかないほどで、白兵戦の中、竹内秀勝が駆け付けた時には、柳生宗厳自身が多武峰方の蓑輪与市という荒武者に討ち取られる寸でのところであった。秀勝が引き連れていた松田源次郎と鳥居相模が宗厳を助け、暴れまわる蓑輪与市を逆に討ち取った。まことに危ないところであった。

柳生隊を救援した竹内隊は、すぐさま兵を退いたが、撤兵の途中で松田源次郎は敵に討ち取られてしまった。石舞台に踏みとどまることができなくなった儂ら松永勢は、一里後方の壺坂寺まで退いた。

奈良の山々が桜色に染まる頃、多武峰の僧兵どもの心も和んでいることだろうと、多武峰との和談の仲介を儂は将軍義輝公に依頼し、公家の柳原淳光卿をお遣わしいただいたが、多武峰は義輝公の仲介すら拒否した。

多武峰のこの対応に、義輝公はたいそう不愉快に思われたご様子であったという。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『 松永久秀~天下兵乱記~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。