【前回の記事を読む】「日本は同胞の成功を喜ばない…」世界に注目された医師の嘆き

大学を去る決意を固める

20年間の大学在籍中二つの華々しい成果を上げた。

これだけで通常なら大学人として悠々と学生に講義でもしておればよく、誰も文句は言わないし、言えないレベルの研究成果であった。東京あたりでは学会仲間から「大藤先生の後は先生ですね」と公然と言われていたようである。そう思っていなかったのは誰あらん私だけであった。

大学教授のポジションはたまたま退官する教授の次か、その次の次のポジションにいるということが80%、残り20%が運と業績という順番である。他大学にチャレンジすれば業績が80%と逆転する。第三内科では私の上には5人いた。

大藤教授は自分を支えた免疫班には一顧だにせず、卒業年次の上から3人選んでの選挙戦となった。大藤教授のみこしを担いだ免疫班は土俵にも上がれなかった。

私はこの時すでに大学を離れていたので関係なかったが、教授選とはそのようなものである。私は自分自身の性格から大学には長居をしてはならない、私が考える人生構築にとってこれ以上時間を無駄に出来ないと本気で考えていた。

大藤教授は次々と部下を私のもとへ送り込んで来るし、私は大学を去ることを考えていたし、誰にも相談できない悶々とした日々が続いていた。

世界一周旅行へ

悶々としていたころ、オーストラリアの首都キャンベラで世界リウマチ医交流会があるので日本を代表して出席してもらえないかとの依頼が日本リウマチ学会からあった。

ちょうどその2か月前にサンフランシスコで国際リウマチ学会があり、出席を予定していた。この際サンフランシスコより、2か月かけてゆっくり世界旅行しながらキャンベラまで行こうと何とも不埒な計画を立てた。私が自由人、自己中心的と言われるゆえんであろう。

当時は私がすることに周囲から文句は言われないし、また言えない状況であったのであろう。この計画はすんなり大藤教授からも認められた。どこでお聞きになったのか、教室に出入りしていた先輩の山本伸郎先生、この方は長らくエーザイで仕事をしておられたお偉いさんで世界に知己を有していた。

世界旅行をされるのであれば、私が出入りしていた大学、研究所がアメリカにはたくさんあります。そこに知人もいるので立ち寄って講演でもされたらどうですかと言われた。私はただ観光旅行に行くだけなら面白くないと思っていた矢先でもあり、ありがたくお受けした。

山本先生が紹介状を送ってくれたり、私自身も2~3のところへアポをとったりした。当時は面白い世界周遊券があった。出発地より到着地が東側であれば南北はどこまで行ってもよい。実に面白い券で、その代わり飛行機の予約、ホテルの予約はその場で自分がせねばならない。