第二章 終戦

2 終戦、そして沖縄への帰郷 

ふるさとの賀数部落

翌日、再び米軍のトラックに乗せられ、いよいよ我がふるさと、賀数部落に向かいました。

途中、至る所に、戦争の激しさを物語るかのような砲弾の跡がありました。ここかしこに砲弾によってできた穴を眺めながら、舗装のされていないでこぼこ道を荷物と共に揺られ走り続けました。

やがて、すっかり変わり果てた我がふるさとに着きました。厳しい戦争を耐え、命からがら生きながらえた人々が出迎えてくださいました。

その中に、陽に焼けて、すっかり頭髪が白くなった祖母の姿を見つけ、思わず「おばあちゃん!!」と、大きな声で叫んだことを思い出します。

出迎えの人々と、生きて再会できた感激で皆が涙を流し、抱き合い語り合いながら各々の家庭へと向かったものです。

すっかり変わり果てた我が家は跡形もなく、屋敷内には砲弾の破裂による大きな穴が二か所もありました。その片隅には、祖母がひっそりと暮らしてきた三畳間ほどの小さな掘立て小屋がありました。

近所の人たちの協力で建ててもらったそうです。かつての母屋は固い真木による総造りでした。砲火にやられて隣家はあっという間に焼失したものの、我が家は三日三晩燻くすぶり続けていたそうです。

しかしながら、働き手も何もなく、手の施しようもないまま悲しい思いで見守っていたと、祖母が語ってくれました。

やがて、母の問いに重い口を開いた祖母は、南部戦線に駆り出された叔母の文子が、“ひめゆりの塔”の近くで従軍看護婦として戦死したこと、また母方の伯父である清昌さんも師範学校卒業間もなく、“健児(けんじ)之塔”界隈で戦死した模様だと語ってくれました。

二人とも遺骨の収集はできず、南部戦線で散った多くの犠牲者とともに“魂魄(こんぱく)の塔”に埋葬されていると思われます。

[写真1]激しい戦いの中を生き残った祖母
※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。