エンリコ・フェルミとの核分裂実験追試

イタリアの物理学者エンリコ・フェルミは一九三八年のノーベル賞(中性子衝突による新放射性元素の発見と熱中性子による原子核反応の発見)授賞式出席のためストックホルムを訪れ、(妻がユダヤ人だったので)そのまま一九三九年一月にニューヨークに到着し、コロンビア大学の物理学教授となっていました。

アメリカに移ったシラードは、一九三九年一月、コロンビア大学のエンリコ・フェルミにウランの核分裂実験(追試)を行うよう頼みました。一九三九年一月一六日に、フェルミはコロンビア大学のサイクロトロンを使って核分裂反応の追試に成功しました。

シラードはフェルミにこの結果を秘密にしておくよう主張しましたが、コロンビア大学で公的な地位を持たないシラードのそんな主張が通るわけはなく、フェルミや大学の関係者に押し切られる形で結果は公表されました。

アインシュタインへの手紙

考えること、なすことがすべて自分の心配していた方向に向かいシラードは、いよいよ最悪のこと、ヒトラーが原爆を開発するのではないかと考えるようになりました。

シラードは、まずアメリカ政府にコネのある科学者への接触を試みました。彼が接触した経済学者のアレクサンダー・ザックスは、当時から抜群の知名度があったアインシュタイン(すでに一九三三年にアメリカに亡命しプリンストン大学の教授になっていました)が手紙を書けば直接、ルーズベルト大統領へ手渡すことを約束してくれました。

シラードはアインシュタインのもとで研究していたこともあった親しい間柄だったので、シラードが手紙案を起草し、アインシュタインに頼み込み、サインをしてもらいました。この手紙では、核連鎖反応は強力な爆弾となり得ることを指摘したうえで、アメリカ政府の核エネルギーへの関心の喚起と当面の研究資金の支援を訴え、さらに核エネルギーの研究がすでにドイツの政府レベルで行われていることを示唆する事実を指摘していました(この間の一九三九年九月一日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻しました)。

一九三九年一〇月一一日、アレクサンダー・ザックスがルーズベルト大統領に面会、アインシュタイン=シラードの手紙を渡しました。ルーズベルト大統領は、アインシュタインの手紙の意見を受けて、ウラン諮問委員会を発足させましたが、この時点ではまだ、核兵器の実現可能性は未知数であると聞き、大きな関心は示しませんでした。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『人類はこうして核兵器を廃絶できる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。