その1 もちがつお

「いらっしゃいませー」

表の戸が開くと大将の威勢のいい声が聞こえてきた。いい酒場の条件その一、まずはクリアだ。俊平は一歩踏み入れて店内を見渡した。見渡すというほどの広さはない。

カウンターが八席。その横には四人掛けのテーブルが二卓。白木のカウンターの中には大将らしき、まだ三十歳ぐらいか、白衣の若者が一人。そして白いブラウスに黒いエプロン姿の美紀が笑顔で迎え出た。

「予約してないけど、一人。いいかな」

「どうぞどうぞ。月曜日はいつもこんな感じで」

照れた笑みで大将が言うと、美紀がカウンターの椅子を引いた。店の名前は「酒肴・花里」か。「花」繋がり……。その名に誘われて暖簾をくぐったのかもな。スーツの上着を脱ぐとすぐさま美紀が受け取ってハンガーにかけてくれた。

「あっ、ありがとう」

近くで見ると、どこかで見たことがあるような。二十代前半ぐらいの小柄な女性。最近の若い子はみんな同じに見えちゃうしな。温かいお絞りをもらって手も、そして眼鏡をはずして顔も拭いた。

「じゃあ、とりあえずビール」

「はい。少々お待ちください」

冷蔵庫から冷えたグラスをとりだして美紀がサーバーからビールを注ぐ。俺の好きな夕陽(ゆうひ)ビールだ。すっきりとした味わい、喉ごしの良さ、キレ、すべてにおいてバランスがいい。料理の邪魔をしない、いや、料理を引きたてる美味さだ。

ホップの香りが強すぎないから特に繊細な味わいの和食には合うんだよなぁ。大将がお通しの盛り付けに最後の仕上げをしている。

「今日はいい鱧が入りました。梅肉でどうぞ」

鱧の他にも枝豆や手作りらしい胡麻豆腐、筍の煮物にプチトマトのマリネか。トマトが湯むきされていて、これはお通しからなかなか手が込んでいるぞ。

鈴木俊平(しゅんぺい)、四十三歳。修業していた花屋から三十歳で独立起業した。安定した得意先を見つけるまでは、それまでの修行先に頭を下げて仕事を回してもらったり、先輩の店を手伝ってバイトをしたりで何とか食いつないできた。

だが今では本店に加えて系列店を三店舗構える経営者だ。現場から遠ざかる日も増えた。ここのところ唯一の趣味で息抜きなのが月曜日の一人呑み。

週末は会合などで忙しいし、何よりカウンターでしみったれたオヤジが一人で飲んでいるなんて切なすぎる。土日は家族サービスもあるし……。そんなわけで、ここ数年は月に二度、もしくは三度は馴染みの店で飲むのが習慣になっていた。

この春入った新人社員の歓迎会や店舗スタッフの異動の飲み会は先週までに無事に終えることができた。たまには新規開拓でもしてみるか。そう思ってふらっと訪れたのがこの店「酒肴・花里」。

大将も若そうだし気軽に楽しめる割烹といった感じだな。五時半の開店と同時に入ったのでまだ先客はいない。

「おすすめは何?」

「今日は地元の舞阪(まいさか)漁港からもちがつおが入りました。新玉ねぎのつまでいかがですか?」

静岡県浜松市。春夏秋冬、海のものも山のものも美味い土地だ。俊平もこの土地で育ったからもちろん「もちがつお」のことは知っている。おもに春先から揚がるかつおで、口に入れるとつきたての餅のように歯にまとわりついてくる。

その弾力のある食感がたまらなく美味い。脂ののった戻りがつおよりこっちの方が断然美味いと俊平は思う。釣り揚げたばかりの新鮮なかつおであることはもちろん、締め方や保存にも特有の方法があるらしい。

ただ、揚がるかどうかは神のみぞ知るといったものだから今日はついているのかもしれない。しかも冷凍してしまうとその弾力性は失われてしまう。漁から揚がって数時間が勝負だ。